大木裕之インタビュー in デニーズ 080819
大木さんはたくさんの映像作品をつくられてますが、この「松前君シリーズ」は、大木さんにとってどういう位置づけの作品なのかを教えてください。
一番最初は1988年に東大の建築の卒業設計として「松前君の日記帳」をつくりました。それはいわゆる映像とかは全く入らないもので、建築ということです。間取りも設計図もあるんですけど、いろいろダイヤグラムとか、漫画とか、コマ割みたいなものもあって、一人の主人公「松前君」という中学生の眼を通した作品、設計をやったのが始まりです。その次の年にイメージフォーラムで映像を勉強してたのですが、その卒業制作として「松前君の日記帳」を映画にしたものが「松前君の映画」です。それは1989年に、3時間くらいの
8 mm映画なんですけど。そういう意味では建築と映像っていう僕にとっては重要なものを結びつけたというか、跨いだというか、いろいろな意味で重要な原点というようなところがあります。日記というところから出発したっていうこともあるんですが、それをずっと、人生のなかで毎年毎年積み重ねていくっていう、僕にとってはある意味で一番基本的な作品群です。
初期の「松前君シリーズ」(※1)は、作家にとってのエクササイズといった印象も感じさせます。撮影能力や編集能力、時間感覚といったものを訓練させるプロジェクトとも捉えられるように思えるのですが、その点はどうでしょうか。
それはそうだと思います。修行っていうか、今もそれはありますね。挑戦でもあります。毎年続けているからこそ、その年その年の焦点みたいなものを、全面的にではなくても、今一番挑戦してみたいところに挑戦できるフォーマットになっているということもあります。来年がちょうど「松前君の映画」から二十年なので、来年の「松前君」はまとめ的なところも、あるのかないのかどうなるのかな?というところはありますけどね。来年は久しぶりに全くのノー編集(※2)ってもので発表したいと考えてます。2006年、2007年、2008年を僕は3年のユニットと考えていて、この3年間は編集というものに初めて本格的に取り組んだわけです。2005年まではノー編集が基本だったんですが。
大木さんは 8 mmフィルムによる作品から制作を始めて、その後16 mm、35 mmといったフィルムフォーマットの作品も残しています。現在はDVフォーマットのビデオ作品がメインですね。最初のビデオ作品(※3)が1998年とすると、今年で10年間ビデオを回してきたということになります。フィルムとビデオの違いについて聞かせてください。
あぁ、今思い出したんだけど、大橋勝(※4)って知ってる? 大阪の。あの人になにかの時に「ビデオなんて人間のやるものじゃない」って言ったのは覚えてる。なんの時だったかは覚えてないけど、言ったことは覚えてますね。だからどこかでそういう考えはあるんだろうけど。じゃあ、今の人間が人間なのか?とかいう話になると、普通に考えれば人間なわけで。(笑)。。。だから、その頃からは考え方が変わったんだろうね。ユリイカで96年にソクーロフ特集(※5)のインタビューのときにも僕はそういうことを言ってるんだよね、幽霊がどうとか。。。。ただ、もう世の中の方も変わってるじゃない、96年から比べると。今ではむしろ完全にビデオが僕にとって標準のフォーマットになってますね。
今でも「光をとらえる」といった時はフィルムの方が良いといった考えはありますか?
あぁ、それはある。。。。そりゃそうよね。普通の意味でいうと美しい光をとらえるのはフィルムですよね。だから逆に言えば、僕自身の今の関心は違うんでしょうね。たしかに今、フィルムで撮ったら楽しいんだろうなとは思いますけど。「ああ、こんなにきれいに出る」ってのはあるんだろうけど。けれど今、僕が映像作品でやろうとしている主眼は、光じゃないんだと思います。こういう発言をしたことはこれまでないと思いますけど。光じゃないね。たぶん今は。あ、この話したっけ?
今度、ARATANIURANOでやる展覧会のタイトルが「21世紀の思想哲学の前夜祭」(※6)っていうの。ようするにその思想哲学の部分をやりたいんだよね。フィルムとビデオの違いがどうだってところはわかんないけど。。。けど、フィルムよりビデオの方が記録性はあるよね。普通に言ったら。ドキュメンタリー性っていうか、
データ的なところも含めていろんな意味でそうだと思う。
光ではないその重要な部分について、もう少し聞かせてください。
ショットの繋がりが重要ってことかな。今のところはワンショットの映画は作ってないので必ずいくつかのショットがあるわけですよね。それがどうやって繋がっていくのか。光っていうよりはショットが連続してるってことがメインなんだと思う。フィルムでもそれはできるかもしれないけどビデオの方がより明快な感じがする。一番シンプルに、ショットってものが連結していくってことを本気でやったら何ができるのか、それは5個でも100個でも200個でもいいんだけど。その映像が連結したものが、もしかしたら21世紀の思想哲学って意味では相応しい言語なんだと思う。リーディングでもいいし、書き言葉でもいいし、音楽でもいいし、美術でもいんだけど、今、何かを語ろうとしたときに、その映像が連結したものっていうのが最も雄弁で、一番表せるってことなのかな。だからフィルムである必要っていうのはあまりない。光の質がどうとかいう問題じゃない気がする。関係なくはないけど美学の問題じゃないっていうか、ひとつひとつのショットがいわゆる絵画的なものじゃないっていうことかな。絵画的って言ったらおかしいかもしれないけど、そういうものじゃない気がする。
その映像が連結したものというのはコラージュ(※7)に近いものなのでしょうか?
それとイメージは全く違いますね。僕のイメージするのはまさに「言葉」だね。例えば「赤い花」だとすると、それは「赤い」と「花」を連結させているわけで、それと全く同じ感覚。「赤い花」って言葉がコラージュだっていうんだったらそうだけど。例えば「選べるフレンチブリオ380円」っていうのは、これは「選べる」って言葉と「フレンチ」と「ブリオ」と「380円」が連結してると僕は思うのね。それと同じ。それを「フレンチ選べるブリオ380円」にするか「選べるフレンチブリオ380円」のどっちにするかっていうのと同じ感覚だと思う。言語っていうのは何千年の歴史っていうのがあるわけだから、それに比べると映像の論理っていうのはまだ確立されてないわけですよね。それをやろうとしている。コラージュをしたいんじゃなくて語りたい。語りたいっていうとおかしいかな、「選べるフレンチブリオ380円」っていうものがあるとしたら、それを見せたいわけよ。それはコラージュの感覚じゃないと思う。
大木裕之インタビュー
2008年8月19日 デニーズ 大垣店 にて
聞き手/構成:前田真二郎
※1 初期の「松前君シリーズ」
毎年元旦から10日まで北海道の松前町に滞在して制作される日記形式の映画。8 mmフィルムの1ロールは約3分だが、それをラッシュ(無編集)の状態のまま、撮影された順番につなぎ合わせて完成させるというスタイルを持つ。通常フィルムロールの最後の部分は光が感光してホワイトアウトするのだが、その部分も残したままで次のフィルムにつながれる。つまり作品全体からみると周期的にホワイトアウトが挿入されることになり、フィルムのロールが意識される構造を持つことになる。また、それとは別に日付が変わると最初に日付を表すショットが必ず撮影される。初期の「松前君シリーズ」には、この2つのグリッドが絡み合うミニマルな構造が特徴としてあった。
※2 ノー編集
大木のいう「ノー編集」とは、いずれ編集するであろう素材ををそのまま見せるという意味ではなく、そのまま見せることを前提に撮影することである。つまり、全体の構成を意識しながら撮影を連続させていく技法であり「カメラ内編集」とも呼ばれる。
※3 最初のビデオ作品
デジ・シリーズ第一作「デジヤマ-天地創造」がそれにあたる。フィルモグラフィーには、同1998年に「白鏡」「中須賀の路地の子」「光の庭の子供たち」がある。それ以降のフィルム作品としては2004年に「松前君の旋律
II」(16 mm)がある。
※4 大橋勝
1960年生まれ 映像作家 大阪芸術大学芸術学部講師。
エンドレスのビデオ作品を多数制作。私設ギャラリー「Peephole Theater」で発表を続けている。
※5 ソクーロフ特集
アレキサンドル・ソクーロフは1951年生まれの映画監督。タルコフスキー、パラジャーノフなき後のロシア映画界の最高峰の一人とされている。「ユリイカ」臨時増刊ソクーロフ特集号
(青土社/1996)に、大木裕之インタビュー「ネガとポジの往復」が所収 。ここでも大木は「ヴィデオは恐いですね。いいとか悪いとかではない。ヴィデオというものは人間のやることじゃないと思いますね。」と発言している。
※6「21世紀の思想哲学の前夜祭」
ギャラリー「ARATANIURANO」にて2008年10月4日から開催予定。
http://www.arataniurano.com/
※7 コラージュ
主観的構成の意図を持たない「意想外の組み合わせ」としてのコラージュは1919年にマックス・エルンストが発案したとされる。