ALA-SCOPE 02「映像レーベル・ソルコードの作家たち」
2 池田泰教IKEDA Yasunori
あいちトリエンナーレ2016による、現代の表現や各地のアートシーンに迫るイベントシリーズ「ALA-SCOPE」にて、SOL CHORDの作家作品の上映イベントを4回に渡り開催しました。この上映イベントでは松井茂氏(詩人)が聞き手となり、作者が自作について語ります。
第2回目はsc-004『7×7』の池田泰教さんの作品を上映しました。この時のトークの模様を書き起こしでお届けします。
2016年7月22日(金) 19時開場 / 19時30分上映スタート
トークゲスト:松井茂(詩人、情報科学芸術大学院大学准教授)
構造についてよりも通俗的に話したいこと
松井: ゲストなのに毎回来なきゃいけないという、ホストがゲストという謎なシステムですが、松井です。僕は、詩人としての活動を起点にいろいろなことを考えているわけですが、映像に関連して言えば、鈴木志郎康さんは詩人であり映像作家であるわけだし、いま東京国立近代美術館では吉増剛造さんの展覧会をしています。そういう意味では、小説が映画化されるというような距離とは違うはかり方で、詩は映像に繋がっているのではないかと考えています。雑な私見ですが、20世紀後半に展開した戦後詩と呼ばれるコンテクストには、メディア論的な観点があって、小説のようなベタな接点とは異なる、まぁメタ的なのかな? いずれにしても特殊な接点をクリティカル・ポイントとして考えてきました。で、SOL CHORDというレーベルを読み解けという、前田さんのディレクションを引き受けてみた次第です(笑)。
今日はその2回目で、どういうモードでしゃべろうかな?って考えてきたのですが… 毎回同じになってもいけないなぁと、一応、気にしています。前回はわりと分析的に過ぎたかなと思ったりしています。ですから今日は、えーと、僕自身が思い描いている詩人というよりも、なるべく通俗的な意味での詩人モードでやろうかなと思ってます(笑)。
池田: できるんですか? そんな…(笑)
松井: 言ってみただけです(笑)。で、とっかかりになるかもしれませんが、なぜ、通俗的にいこうと思ったかというとですね… 本日上映された『3PORTRAITS and JUNE NIGHT』は、すごく構造的な作品として作られているのが事前に拝見してわかったんですが、この作品が魅力的なのは、その構造ではないという気がしています。とはいえ、構造としていえば、前半の『3PORTRAITS』の三つのエピソードも、基本的には、スーパーインポーズされるタイミングが反復されているとか、3.11を挟んだ後半の『JUNE NIGHT』では、違う形で『3PORTRAITS』が反復されたりする。特に前半のお父さんが亡くなり、後半は娘さんがその仕事というか仕草を反復するシーンがあったりします。
池田: あの女性は成井ふみさんといって、作中に登場する、亡くなった成井恒雄さん(Portraits#03の陶芸家)の義理の娘さんですけど、恒雄さんの仕事・仕事場を引き継ぐのが、ふみさんということに制作中になった…というか、決意されたんだと思うんですけど。
松井: なにかいろいろな場所に前半と後半、あるいは全体と部分の構造が入り組んでいます。最後の方で、洞窟から出てきた青年(音楽家の福島諭)が声を出すシーンがありますけど、これは池田さんの最初期の作品で、DVDに収録されている『7×7』(2004年)の引用というか再演、反復ですよね。『7×7』では、その青年の後ろを轟音で貨物列車が走って声がかき消されるという非常に印象的なシーンでしたが、今回は対照的に静寂というか、森の中です。
映像に限らず時間軸を持った芸術作品の多くは、作者あるいはその主題を中心に、作品の内部や、作品の外部のコンテクストを有機的に接続し、記号の編物を形成していると思います。この関係性が見渡せたときに、見る側は構造的だと分析した気持ちになる。他方でこうした構造は、クラシックなことというか、普遍的なことでもあると思います。音楽で言えば交響曲形式であったり、ソナタ形式であったりするようなことで、例えば最後に全部の主題が重なって再現されるようなことで観衆は感動する。芸術の表現の歴史って、大抵この作品の定型的な構造を洗練するものだと思うんです。逆から言えば、芸術のこうした側面は、人間の側に、ある程度埋め込まれた生理に関わる探求でもあると思うんです。物語の形式が何かを理解する手がかりになったりする。つまり、再構成された時間軸を記憶する方法というか、認識する方法というのかな…、個々のエピソードに喜怒哀楽があるというよりも、情報提示の形式が喜怒哀楽を決めるような部分があると思うんです。つまり、科学とは違うけれど、芸術的な知見の収集としての理性と、人間の感情という野生の部分の関わりがそんなふうにあって、様々な芸術の領域細分化を展開してきたのだと仮定してみたい。すると、エピソードよりも構造がアルゴリズムとして抽出される。
池田さんの作品にも、明らかにそういう構造というかアルゴリズムが設計されています。ただ、その議論をすると、個々の要素に関する議論がどうしても蔑ろになるし、池田作品にとって、本当にそういった構造やアルゴリズムがまず語られるべきものなんだろうか? という疑問を僕は持っています。ここで引用や対応を指摘して時間軸を明らかにしていっても意味が無いような気がして… 池田作品に接して直感的に感じる魅力を、構造ではない観点から話せないか? もっと直感的に!ということを、まずは、通俗的な詩人モードで話したいと思った次第です。
ベタベタした映像?
松井: 僕はやっぱり構造的に編集されていることよりも、編集される以前の素材として撮られたイメージ…、イメージのテクスチャーというべきかな? ある種の生々しさが気になるんです。わかりやすく言えば、ある種のエロスを喚起する感じですね。池田作品は、構造それ自体よりも、エロティックに感じさせられてしまうイメージがあって、それが魅力なんじゃないかという気がする。構造よりもまずこの前提が重要なんじゃないかっていう印象を持ったわけです。
池田: そうですね。まず作品の中の時間的な部分の扱いについて、構造的に作られてるというのは本当にそうで、そうやってるつもりなんですよ、かなり意識をして。どんな形が可能なのか探っていく、そういう興味が強いです。
スコアみたいなものを途中で制作していて…、その上で先ほど指摘いただいたような反復の時間とかも置いています。ただ、これはドキュメンタリーなんですよね、作り方としては。なので、なんでも自由にはいかない。「こういう構造がいいからこうしよう」といったところで、出来事はそうならないということも一方ではあって…。その、実際には自由にはいかない部分と、それでも意思を持って時間を構築していくところとのせめぎ合いの部分を、繰り返しスコアを作る行為を通しながら、やってるってことかと思います。
構造もあるけど、撮られてる画の存在が大きいという話に関連していえば、「時間と順列の違い」みたいなことをよく言っていて…、音楽ももちろんそうですけど、映像・映画も時間を体験するものじゃないですか。でも、先程から話しているのは、もっとずっと記号化した、順列関係についてで。構造を考えるときって、もちろん生の時間には触れないので、そういうふうに記号的な操作になるんですけど、でもそれがすごく大事で、それがあるから作れるっていうのがあって。で、いま指摘していただいたみたいに、でも実際はそこに入る素材は、生の時間なんですよね。
なんか、さっきちょっとバックヤードでも、エロいって言われたんですけど(笑)。
それ、実は自覚していて、むしろどっちかっていうとコンプレックスだったんですよ。結構長い間。もう、なぜか分からないんですけど、僕が撮ると…
松井: エロかった(笑)。
池田: (笑)エロい…のかな? なんかベタベタしてる。触覚でいうとベタベタしてて… もっとドライに軽くやってるんですよ現場では。実際はホントにそうで。でも画になったときに全然そうなってくれないという。繰り返しちゃいますけど、ぼくはどっちかっていうと、ドライな感じだと思って現場に行ってるし、気持ち的にもそうです。それこそ、このシーンはこういうふうに表現できなかったらダメだから100回でもやるって人はいると思うんだけど、僕そうじゃないんですね。指示とか、出演者と話すときも「こう振る舞って、ここで振り返って、向こうの椅子の前に来たら、3秒数えてから動いてください…」それぐらいの指示なんですよ。
松井: そういう指示はするんですね。
池田: そういうふうに伝えたりするんですよ。感情の表現でもないので。でも実際の接し方や演出の仕方とは別のところで、どうしてもなぜか昔からベタッとする。そういう傾向が強い。たぶん他の表現ではこうはならなくて。で、意識してやってもなかなか思い描くドライさにはならなかった。そういう、ある種の生々しさから距離を取って、コンセプチュアルにというか、そういう風に作りたいっていうのがいつもよぎる。けど、撮ってみるとそうならない。生々しさゼロにはできないというのかな? これは、撮り方の技法の話でもないと思うんですけど、なんかアンビバレントな感じっていうのがずっとあって、昔はそれが嫌だったんですけど、今はむしろその二つがあっていいのかなって。
コンセプトなり構造なりがあって、で、現れとしては今日見ていただいたものがあって、で、「これはこうできている」とか「こういうふうに作られている」っていうのは読めるようには作る… 態度としてはそうです。で、現れの部分とのアンビバレントさは、それはそれであってもいいのかなって、ようやく最近諦めました。これは、たぶん僕のせいでもないと思い始めた(笑)。
触覚的な反復が構造を起動する
松井: 「構造としての反復」というよりも「触覚としての反復」なんじゃないか? という気がするんですね。『3PORTRAITS』は、まぁ、ドキュメンタリーとして撮っているわけですが… 多分本来のドキュメンタリーとして撮るべき対象と関係のないシーンとして、森の中の道をゆっくり移動するシーンがあります。あれは『JUNE NIGHT』では、福島諭さんの音楽が流れるシーンで、同じような動きで普通の道路をなぞる反復になる。「反復」として構造的にはドライなんですが、実際には「なぞる」という触覚的な感じが強い。他にも、父と娘のシーンで、スーパーインポーズが反復されますが、実際にそこで立ち現れてくることは、もう執拗に撫で回すみたいな感じで、池田さんの作品の場合はドライじゃないんです。なぜなんだろう? でも、それがすごく魅力的なんですと、本人に聞いてどうするんだって話ですね(笑)。
池田: しつこいんですかね?(笑)
松井: なんかすごく執拗ですね。
池田: 「もう一回繰り返す」というのに関連して言えば、前半は2009年、後半は2012年ですけど、そこは出来事としては結構断絶があります。もう人もいないとか。実は、似ているけどほとんど関係ないぐらい離れてる。例えば、もう一回出てくださいってお願いして、出た人は一人しかいなくて。亡くなってるわけですよね。だから撮れない。なんかもう2009年と2012年では震災のせいもあって、出来事同士が離れてる。基本的には全く違う世界っていうぐらい違うなって、当初は思ってました。
でも、やっぱりほら、なんていうか、人間って出来事をつなげて考えるじゃないですか。まぁ、映画もそうなんですけど。前に映ってあるものと次で。日常生活でも似たところがあって。益子でいろんな話を聞いていく過程で、それを目の当たりにしたというか。出来事自体はそれだけだったら単なる一つの出来事、連ならないものなんだけど、解釈として繋げて考えているんですよね。
映画のラスト近くに、洞窟の水面に映る、蹴ろくろをする成井恒雄さん(Portrait#03の陶芸家)が出てくるんですが、あのシーンは、あの方が亡くなったとき、友人の方が僕たちに言った一言をほぼそのまま映像化しています。友人の方は、恒雄さんが亡くなったとき「つーやんも今頃、あの洞窟で好きなだけろくろ轢いてんだろうなぁ」というようなことを言ったんです。「あの洞窟」というのは、前半で出てくる洞窟で、映画の中で僕たちが、それこそ勝手に恒雄さんと結びつけた場所です。すでに益子では前半だけで何度か上映していたから、観てくれていたんですね。誰かが亡くなるという出来事と映画のあるシーンとの間に、そんな関係が生まれることがあるなんて全く想像していなかったから、驚いたというか…。でも、そんな風に出来事は繋げて考えてもいいんだなと気づいたところもあって。
2012年の益子では、表し直すみたいな行為を、僕、したかったんですよ。反復っていうキーワードでおっしゃられたので、なるほどなと思ったんですけど、特に後半は、そういったエピソードを元にして、モチーフにして、演出を付けて、バラバラのものを一つの時間として構成していくんですけど… それ、出来上がったら即その場所で上映する話だったんですよ。観客も出演者も、制作した場所やそこで起きた出来事について、お互いみんな知ってる。「あの人が亡くなったよね」とか「あのときあの場所はこんなだったよね」というのは、実際に起きた現実の方は、観客の方がよく知っています。僕は知らないわけです。そこには居なかったから。
元となるエピソード自体をよく知ってる人に向かって、同じ出来事をベースにした別バージョンを、もう一回見てもらいたかったっていうのがあって。ここでいう別バージョンというのは「これが実際のことでした」と本当らしく作るのではなくて、これは創作ですっていう前提で観れるものという意味です。そう言われてみればそれも反復みたいなものかなと思いました。
松井: 無論、僕は何度か見た結果「反復」を考えているわけで、いわば客観的な全体性を知っている時間軸で見ている。これに対して、没入的な主観的な時間の中で「反復」をみるという側でより、素直に捉えたいというのがあるんですけど。なんていうんでしょうね、生々しい詩人的な感性で言うと、…と言っている時点でそういう感性じゃないんですけど(笑) 主観的に耽溺して見ていることを重視すべきだと思っている自分がいるんですけど、僕は同時に作品としてつくられた時間軸を耽溺してとらえていいのか?と思ったりするんですよね。
レヴィ=ストロースが『野生の思考』って本を書いてますが、この面白さは「野生」と「思考」という対立的な言葉の接続にありますよね。「野生」と「理性」と言ってもよいかもしれない。池田さんの作品に表象されているのは、なんかすごく「野生」的なエロスなんです。「捏ねる」というのは自然を人工物に向ける第一歩として考えれば理性的なはずなんだけれど、なんか感触を追求していくような野生に還元していくというか…。野生に向かえば人間は人間じゃなくなるんだけれど、「捏ねる」映像を撮って、なんかそれを構造的に編集して反復を強調するときに、理性にとどまろうとする人間と、野生に還ってしまうんじゃないかと分裂的な気持ちが出てくるというか、最終的に僕は感動してはいけないんじゃないかと、ヘンに抗う気持ちを持って見ていました。池田さんの『野生の思考』の「野生」に惹かれつつ、「理性」の側に立ってる自分に戸惑いながら見ていました。でも、こういうややこしい感情を与えられるのですが、それはつまり直感的に感動しているわけですよね「捏ねる」ことに。
2011年3月11日を跨ぐ
松井: 図らずも3.11が出てきます。3.11は言うまでも無く自然現象なんだけれど、その自然現象という野生が、一般論として人間の理性の究極と考えられてきた原子力を告発するような状況を現出しました。それでも人間は理性を信じ続けられるのかということが3.11以後なのだと思います。人間は、本当にポストヒューマンな理性に振り切るのか、いま一度、生活の本質として、食事だったり、性の営みだったり、睡眠だったりという、残された野生に接するレベルに止まれるのかという振幅を見ながら、いま表現の問題もかき乱された場所にあると思うんですね。そういう観点で、池田さんの作品の前半と後半をどのように位置づけられるのでしょうか?
池田: 前半は2009年に完成していて、それをいくつかの場所で上映させてもらって、それで基本的にはもう、終わるつもりでした。でも、いくつかの偶然、震災っていうのもあったけど、それ以外の偶然もいくつか重なって、もう一回あの場所で作ることに、まずなって… それが2012年でした。そこからですね。
松井: 前半と同じ撮り方では後半は撮れなかった?
池田: 単純に同じようには作れなかったんですよね。ああいうふうに特定の個人が出てきて、何か言葉があって、という表現の仕方が難しいと感じました。2012年にその場に行くと、当たり前なんですけど、被災してるんですよね。
例えば地震の被害で登り窯が壊れる。で、そのあと直すんだけど… 今度は釉薬(ゆうやく)… あれって灰を混ぜるんですけど、薪窯の灰だから、薪木の汚染があると体積に対して濃縮されちゃって、放射線量が上がって、だから使えないんです。燃料として薪も使えない。薪窯で、登り窯で作るとか、そこで出た灰を釉薬に使うのは、彼らはたまたまその方法を選んでいるわけではなくて、伝統的な技法についての自分たちの考えを積み重ねて、実験も実践も続けていきながら選択していることだというのは、素人の僕でもわかりました。
そのための環境を自分たちで整えて、一度破壊されても、直して続けていこうとしていて… で、ようやく必要なものが揃って、いざやろうとしたら、できないっていう。
なんか、2012年のあのときは、環境や状況のほうが、人の考えや言葉より実際に遥かに大きく影響を与えていて… そこで特定の人物を描くっていうのは、どういうことなんだ?っていう疑問があったと思います。そのことが良いのか悪いのかはわからないですけど。
とにかく、それで、表し方をゼロから考えました。前半は「3 PORTRAITS」っていうタイトル通り人物を肖像画的に短い時間で描こうっていう興味だったんですよ。でもその興味の持ち方すら難しいなと感じました。なので、やっぱり違う方法を結構自然に選んだような気がします。
私たちはどこに行くのか…
松井: 「この作品はエロスとタナトスで、特に後半は全部死体置場。モルグだよね」とか言いたい気もするのですが、エロスとタナトスだとか憂鬱と官能みたいな対比で前半後半を語るというか理解するのはなんか分析的にすぎるというか、前半と後半の時間を往還していることになる。3.11以後という問題が惹起する状況というのは、なにかそういう分析的な視点をもはや持てないというか、往還ではなく、帰れない場所というか、時間が提示されているのではないかという気もします。前半にはもはや戻れない感じというか、後半に垣間見える生々しさと、つまりギリギリ彼女がもう一回再生しようとしていることが希望なのか絶望的な感じなのかも判断できない。宿命っていうんでしょうかね。死んでいく人類が、それでも文明の中で生きなきゃいけないってことなのかみたいな気もします。前半は記録として撮ったけれど、後半は脚色を含んだというところの意図を、もうすこし教えて下さい。
池田: 後半の2012年に制作場所に行ってみると、前半の制作で知り合った方と、前回は想像しなかったような話をお互いにしました。例えば、出演してもらった陶芸家の方は、自分の作った陶器が山のように壊れたんだけど、彼は「だいぶ片付けたけど、これ以上は捨てれないんだ」って言う。で、捨てれないってのはなんか心情的な理由なのかなと思って聞くと「いや、そうじゃない。産廃になっちゃうから」って。まぁ、作り手、製造者なので。そういう話が、なにか大げさな感じがなく、普通の生活にまつわる話としてお茶飲みながら出てくる。そういう、わざわざ問題にするつもりもないトーンというか、もうホントになんでもない話の中にそういうものがいっぱい出てくるんですよね。
くだけた席で「実は震災のとき、そんな悪くなかった。いいこともあった。」みたいな話とかもあるんです。で、それは、そんな悪くなかった理由は、あの時は仕事も全部一切止まって、ある人達は他の家を直して回っていたんだそうです。みんな大工仕事もできる人たちなので、家々を回って、片付けを手伝ったりとか、お年寄りもいっぱいいるんで。で、そういうのを毎日、みんなで寝泊まりして、自分たちのできる範囲でずっとやり続ける、それ、その人の家族とか周りの子供まで含めて楽しさがあったそうです。ご飯も一緒に食べて、普段よりいっぱい人がいる。もちろんいま僕が言ってる「楽しい」は、僕の言い方に問題があります。実際はそんな言葉遣いじゃない。でも、まぁ、そういう話もあったりする。
いま僕、少し頑張って「楽しい」って単語で言いましたけど、そういうのは普通言えないですよね。そういうのニュースには絶対ならないし、そういうのを語ったりする機会はあんまりないです。僕が外から来てるから言えるんですよね。たぶん。だって、汚染の問題で苦しんだ農家さんや、陶器やそれを作る環境が全壊した人とかだってすぐ近くにいるわけですよ。「楽しさがあった」と言ってる本人だって、被害はあるわけで。「震災で楽しいこともあったんだ」って、やっぱりあのときはなかなか言えないと思います。でも、それも本当のことだったと思うんですよ。
そうやって出てくるエピソードばっかり気になってきて、そういうものをモチーフにして何か描くことはできないかなと思い始めた。その過程で、そのままではやっぱり難しかったので、脚色とさっきおっしゃったんですけど、抽象的な演出をしたりして一個一個のエピソードに対してシーンを作っていった。そういう作り方でした。
松井: 震災に対して倫理的にいろいろなことを考えるのと同時に、人間って原発作っちゃうのと一緒なんですけど、戦争とか、人殺しや殺人事件、テロなどに、いけないよねって言っていながら欲望しているところがあるように思うんです。こういう破局と抑制みたいな意識の相克。これも理性と野生の捩れた現実なんだと思います。繰り返しになりますが、震災によって露見したこの捩れが調停できないところまで来てしまっている。池田作品はそんな裂け目にある映像なのかもしれない。どこからが作品の中にあって、どこからが自分の側の問題かわからないけど、裂け目が浮かび上がってきます。
野生の眼差しと理性としての映像
松井: すこし話題を変えます。「BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW」という企画がありますよね。池田さんもこの企画で制作されていますよね。
池田: 「BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW」っていう、SOLCHORDの前田さんが企画された短編のオムニバス企画というのがありまして、で、それは、大枠の構成の部分に同一のルールが決まっていて、いろんな作家がそのルールに則って、5分の短編を作るっていうものです。僕もそれに参加しています。
松井: 池田さんの作品は… あれはお父さん?
池田: えっと、2011年の5月に作ったのが最初なんですけど、一本目は兄が主人公で、その後の2012年の二本目は正月だったと思うんですけど、そっちには父親が出てます。
松井: 池田さんの実家が福島で、福島を撮った作品ですよね。
池田: そうですね。
松井: ここでもルールとしての構造と言うより、僕は池田さんが選んで、撮る主題がなんかすごく生々しい気がするんです(笑)。実際、みなさんご覧になって欲しいのですけど。
池田: ええと、なんかずっと、話を聞いてて思ったんですけど、時間的な構造に対しての、実際のショットや主題の、ある種の生々しさ、の関係って、やっぱり、映像って基本的にはどうやってもそういう要素は消せないんじゃないかって思えてきました(笑)。実写に関して言えば、ゼロにはできないというか。撮るものに関して言えば、人間映ったらやっぱ生々しいんですよね、人間って。で、松井さんが言ってくれた理性と野性のアンビバレントな関係っていうのは、多分指摘いただいたほとんどそのまま、毎回僕もやっぱり意識していて、で、やっぱり引き裂かれてるっていうか、なんか、引き裂かれてるって言ったらあれですけど、格闘させられてるというか… コンセプトのドライさとは別なものが画面から出てきちゃってるというのはそうかもしれません。他の表現ならそれは失敗かもしれない。でも、映像の場合は少し違うんじゃないかと思う部分があります。そういうやりとりを繰り返してるんですかね? 作品を通して。「BYT」(BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW)とかも、ある種そうだと思うし。でも、必要だという気がするんですよね。その届かない理性、構築する意思みたいなものは、現れとして弱くても… 必要というか。
松井: 生々しい詩人っぽく言うとですね、しつこいですけど(笑)。
池田: 生々しい側なんですね。
松井: 池田さんのなんかキラキラした目が欲望してホントに見たいものとして追っているものと、見たいものを見てはいけないんじゃないかみたいな抑制が、なにかアンビバレントな関係というか… オーバーなこと言ってるように聞こえるかも知れませんが、人間の野性と理性の関係ですよね。人間が本当に欲望のまま突っ走っていいのかみたいなことに対しての、映像メディアができたときからというか、メディア技術とは言い換えれば、複製技術であり、それは絵画が現実をトレースする欲望に遡ると思いますが、この野生のような理性のような問題ね。
池田: ついて回ってますよね… そういう問題は。
松井: 見てはいけない/見たいと思っているその欲望をどういうふうに、まぁ言ってみれば、額縁の中に収めるのか? パレルゴンの中にどうやって収めるのか? みたいなことが絶えずあって、いよいよパレルゴンみたいな枠組み自体も壊れたかもしれないっていうところで、いま、人間の野性と理性をどう考えられるのか? たぶん手遅れなんですが、3.11以後の映像、イメージの扱いの問題がありますよね。
サウンド・デザインの観点から
松井: ここまでイメージに寄った話をしてきましたが、今日上映した作品ではサウンド・デザインがとても重要な側面をもっていると思います。監督とサウンドデザイナーの仕事はどのように実現されていたのか?というあたりを伺いたいと思います。
池田: 紹介します。今日見ていただいた作品のサウンド・デザイン、録音や整音とか、サウンドのこと全体をやってくれたウエヤマトモコさんが来てくれました。
(会場拍手)
池田: 作品全体とサウンド・デザインの関係ですよね。僕から最初に少し話してもいいですか?
ウエヤマ: あ、どうぞどうぞ。
池田: 前半と後半があって、前半の2009年の方で初めてウエヤマさんと組んだんですよ。で、それまでそれぞれやってることは知ってたんですけど、その時、初めて一緒に現場に行って…。当然マイクは全部任せてあるので、現場でもずっと一緒だったんですけど…。えっと、まぁ、編集の段階で結構言われましたね。
松井: 何を言われたの?
池田: あらかじめ一つの目標に向かって、お互い完全に理解して「じゃあ、こんなのを作りましょう」っていう、すんなり作るっていう作り方ではなかったんですね。サウンドに関して言えば。
ウエヤマ: それまで私は舞台の音響もしてきてましたが… 必ず戯曲がまずあって、そこからプランを立ててというような形だったんですけど、ドキュメンタリーってシナリオがないので戸惑いました(笑)。どういう映像を撮るのかっていうのは、ぼんやりとした形で聞いて、あとは、撮る前のフレームを見て、そのフレームで撮るのであればいまそこで何を録ればいいのか、なんの音を録っておけばいいのかなっていうのをその場で判断してマイクを立てるというような感じでしたね。はい。
松井: 最初の方で、映像が重ね合わされるシーンがありますが、複数の音声、その場で喋っている音声と、ボイスオーバーが出てきますよね。あのあたりのシーン、僕にはとても印象深いのですが…。
ウエヤマ: 実はなんですけど、前半に関して、私はサウンド・デザインって書かれているんですが、ここでこの音とこの音声と、後ろのSEを混ぜてとか、そういう時間的な構築はほとんどしていなくて… そこは池田さんになるんですよ。なので、私はどちらかというと素材をどれだけ用意しておくかという役割に近かったかと。
池田: ちょっと、言い訳していいですか(笑)。言い訳っていうか… 渡せなかったんです。ええと、今日スコアもお渡してますけど、前半ってちょっと複雑な作りなんですね。アイディアとして。で、いざ作る時に蓋を開けたら、音声も映像もいっぺんに置いていかないと時間が作れなかったんですよ。これはやる前はわからなかったんですけど。
松井: (紙の構成表を指しながら)今日の作品は実はこういうスコアになっているんですよ。これがあるから、もともと構造を強調した話はしたくないなと天邪鬼に考えた次第です。
池田: 手書きのタイムラインなんですけど。いまは大分変わったんですけど、その当時は、サウンドと映像のことをいっぺんに同時にやらないと、特に重なりの部分の構築ができなかったんですね。このスコアみてもわかるんですけど、前半はすごく要素が多いんです。時間的には短いんですけど、17分ぐらいしかなくて…。後半は27分ぐらいあるんですけど、ショットの数で言っても前半のほうが多いんです。重なりも入れて93とかだったと思います。後半はそんなないんで。
松井: 映像がスーパーインポーズするシーンでは、サウンドはどう考えるんですか?映像は重なるわけですが、サウンドは?
ウエヤマ: その撮影している時のそのショットが、二重になるかソロになるかは全くわかんないので(笑)… ひとまず録音するときに、三種類の音は録らなくてはと。例えば、一つは、メインとなる人にピンマイクをつけたり… これは予測でしかないんですけど、衣擦れや吐息だったり、そういう距離が拾えるものをまずつける。そしてもう一つは、ドーンと引いて全体の響きを録る。あと一つは、中距離からその人のキーとなる動きをガンで録るというような形で… 仕組みとしては。ただ、あの、こんなこと言っていいのか分からないですけど、私の耳は二つしかないので… 現場は、レコーダーは二台、もう一つはカメラにって感じですけれども、全部は同時に聞けない。「この状態だったらあれが録れるだろう。これはこう録れるだろう。」というような、予測して仕掛けておく感じですね。
池田: 思い出してきたんですけど、でも、そうは言っても、前半のサウンドの構成について、全然言うこと聞いてくれないというか(笑)… 彼女の意見が強く出ているシーン、パートっていうのも、いくつかあるんですよ。それは最終的に僕も、「うむ。」って言って、それで残してる。
ウエヤマ: え、どれですか?(笑)
池田: 前半の、Portraits#02の吉沢さんのところの土のシーンとか。大きさが分からない土の山みたいなのがあって、重なってくるんですけど、あの時間のサウンドの作り。あとは、あの、Portraits#03の成井さんの、ラストの洞窟、蹴ろくろが二つ鳴るところとか。
松井: 音がないところの音があるじゃないですか。
池田: そうです。そうです。
ウエヤマ: あ、確かにちょっと作ってる部分はありますね。あの、粘土の山の音は特に。
多層的な編集点
松井: 前半でウエヤマさんがインタビューしている声が聞こえますよね。全体のシーンのなかで声が出てくる場面が少ない作品だから、とても際立っていますよね。なんていうのかな、聞かれて答えている人のリアリティよりも、聞きに行った人のリアリティが、すごく生っぽく僕には響きました。それはサウンド・デザインというよりも、出演(笑)
ウエヤマ: 一番最初のオファーは、録音それ自体よりも「出演者の吉沢さん(Portraits#02の粘土職人)が、普通だったら話をしてくれないと思うけど、ウエやんだったら話してくれるかもしれないから一緒に行ってくれない?」っていうのが本当の最初のオファーだったので(笑)。吉沢さんの話を聞いてくれという。
池田: 吉沢さんはあのPortraits#02の粘土職人の方ですね。
ウエヤマ: そうそう、あの土の方が。ホントに普段はお話をされない方なので。
池田: インタビュアーの声については、意識して残したと思います。(技術的には)普通に切れますけれど、やっぱり、普段話さない吉沢さんが、ああいう、なんとも言えない良い声色で喋っていて、その喋ってる人の反対側に誰もいないような作りはちょっと不思議になるというか…。何かドキュメンタリーって、客観的な真実、聞いても聞かなくても、言葉はそこにあるふうに振る舞いがちなんだけど、僕たち自身があまりそういうのは信じてなくて。普通に、聞かなかったら喋ってくれないわけです。で、ひょっとすると、その時に生まれてる言葉っていうのが、ほとんどかもしれない。
そう考えると、その時に聞いてる人の声っていうのも大事で。その声が側にあることで関係が成り立ってるわけだし。そういう音声が入っても壊れない、大丈夫だという感じはありました。
松井: 後半は言葉が一切ないですよね。
池田: そうですね。ラジオニュースぐらいですかね。あとは、あの、葬式というか、偲ぶ会の声が少し。
ウエヤマ: 私も後半はインタビューをするというよりも、撮影をする前にいろんなお話をして、みなさんとちょっと、その時の状況をお聞きしてっていう形だったので、あの人達の個々の声よりも、今の状況への意識が強かったというか。動いているその状況の方を、音で取れたらなとは思っていました。私は、映像は撮れないので、そのときにあった音はもう、すべてこぼれないように、…どうやってもこぼれちゃうんですけれど、拾える部分はいくらでも拾うというか。些細な音、全て録りたかったですね。
松井: こうした作品の撮影の際、当然のことかもしれませんが、カメラを回すのとは別に音だけを録ったりもするもんですか?
ウエヤマ: あ、録ってますね。
松井: なるほど。当たり前だと言われれば当たり前のことなのだと思いますが、録音は録音だけで構成されていく部分もあるわけで、映像の編集点と違うところに、録音のトラックが別の編集点を作っていくということが、僕、素人なんで、スコアをみてから、作品を見直して、いろいろ刺激的でした。複数の時間軸があって、そのコラボレーションみたいな部分を意識したりもしました。
質疑応答
観客: 最後の、一番最後のシーンで、歌を歌われる、あれはなんとおっしゃってるんでしょう?
池田: あれは、Lennox Berkeleyっていう作曲家の《Agnus Dei》っていうミサ曲で、レクイエムに使われるある一節を一部だけ歌っています。
松井: 神の子羊ですね。生け贄ということですね。ある種の記号性としては登場しているのでしょうか? なんかこのシーン急に説教くさいですよね(笑)。池田さんと福島さんが理性にとどまろうとした感じなのか。僕としては、このまま終わったらどうしようと初見で思ったんですよね(笑)。虫の声で終わってよかったですよ。
池田: それはそうですよね(笑)わかります。
松井: 福島さんの音楽や《Agnus Dei》で終わっていたらどう思っただろうかというあたり気になっています。直感的な感想に受け取られても構わないのですが、最後、環境音になって終わったことで僕は感情的にすごく受け入れられた気がします。それでもこれを感動と考えていいのかっていうね。
池田: 僕もホントに、たぶん同じように困っていたと思います。あれブツっと終わってるんですね。すべて歌い上げることは不可能で。現場でも映ってる分しか歌ってないんですよ。で、やっぱり、なんというか、正直に言えば、本来なら、歌い上げられたら、どんなにいいだろうって思うんです。でも、僕らは、とても歌えないですよね。でも、かといって、じゃあ全くそれをしないでいられるものか、というような、そういう悩みというか、迷いというのが混在していて、あの、結構苦労というか、ためらった分をきちんと表す方法という意味で、特にあの箇所は悩みながら作ってました。
松井: その悩みがちゃんと出てますよね。出ちゃってるということなのかもしれないですが、観る側が受け取るがままに悩んだことを今日確認できました。何度となく話題になった、福島さんも出演している『7×7』(2004年)は、SOLCHORDからDVDとして発売されています。今日の上映作品を解読するためにというより、直感的な連続性で受けてとめてほしいんですよね、個人的には。3.11があったことにかこつけての作品ということとは全くちがう作品だと思うんですよね。なにか見ることと見てはいけないことが、元々交錯しているところが素直に表象されている魅力から考えるほうが、なんか深いところに行けると思います。3.11のお陰で作品作れたみたいな快哉をあげてるような作品もあるじゃないですか。僕は、そういうの腹立たしく思っちゃうほうなので。池田さんの場合、日常的な連続性において、そういう災害とか事件をことさら際立たせてモニュメントにしないで、もっと淡々とした人間の歴史っていいますか、事件の連続じゃなくて、日常の眼差しの連続にあることを示していると思うんです。普通の映像作品は一品ずつ完結しながら見てどうこういうべきなのかもしれないですが、僕は、作家につきあいながら、連続的に、対話的に見るようなこともありだと思うんです。だから『7×7』(2004年)からの連続性を見ることで作家としての営みがあるなってことを確認してもらいたい。含羞もありつつ、見たい、見たくない、見るべき、見てはいけない様々な野生と理性の眼差しと素直に向き合う作家との関わりは、僕には貴重な体験に思えます。今日この作品がいいと思えた、もしくはなんなんだろうって疑問でもいいんですけど、思ったとするところがあったのならば、作家の営みとしてのコンテクストを見ていただけると嬉しいです。僕はこの一週間、池田さんの作品というか、眼差しとずっと重なっていたんで、盛り上がっているんです(笑)。えっと今日はどうもありがとうございました。
池田: どうもありがとうございました。
(会場拍手)
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sc-004 『7×7』池田 泰教 Trailer
【ALA-SCOPE 02「映像レーベル・ソルコードの作家たち」】
主催:あいちトリエンナーレ実行委員会
共催:SOL CHORD
1 2016年6月18日(土)…齋藤正和
2 2016年7月22日(金)…池田泰教
3 2016年8月26日(金)…大木裕之
4 2016年9月16日(金)…前田真二郎
トークゲスト:松井茂(詩人)
時間:19時開場 19時30分上映開始(21時10分終了予定)
場所:アートラボあいち大津橋・2階
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