作家Q&A:池田泰教

 

映像中に、遺影やお墓などが登場しています。
誰かが亡くなったようですが、どのような方なのですか?
もし良ければ、その方と池田さん、そしてこの作品との関係を教えてください。

僕の場合は、亡くなってしまった人物やすでに存在しないものを撮りたい、ということは、よくあって、そういう後の祭り状態からスタートすることがよくあります. K(遺影の彼)は、1999年に知り合って2年もたたずにガンで亡くなっていました.

亡くなったときは、それがどういうことかよくわからなかったから、いなくなってしまったことと、自分の時間が続くことに対して、普通に苛立ったり悲しんだりしていたと思います.
そうしているうちに、自分が死んだ状態を想像して、今と何がどうちがってるのか、ああでもないこうでもないと考えるようになりました.

いまになってぼんやりとわかるのは、作中でKがあちこちに登場するのは、僕がKのように、今の自分や世界を別なフィルターを通して見てみたかった、という欲求があったんだろうということです.
あの撮影のルールは、すでに死んでいる誰かが、四十九日までの最後の時間、世界にいれるとしたら、というような意味合いがあったようにも思えます.
だから、あの作品は日記のようなものとして僕の普段の日常を語るものと受け取られることが多いけど、本人としてはそういう意図はあまりないですね.
すごく曖昧だけど、あの49日は、実際にああいう風に過ぎたけど、あの日々全体を通して、先に書いたような死んでる誰かを撮るっていうような意識で過ごしていた.そういう視点がなくてもああいう風に撮ったかっていうと、たぶんそれはない.全体が演出されたものといえばそうかもしれないし、でも一つ一つの出来事は、起きたこととしてドキュメントとして扱っていくっていうような気持ちはありました.

自分ではわからない間に、7×7のアイディアは、ほとんど最終の形で頭の中にできていたけど、でもそんな、ただ撮るだけのようにみえるものが、何かになるのか、そのときはよくわからなかった.
今は少し違っていて、ただ撮るだけだから、見えるものもあったように思っています.

池田さんはもともと写真をやられていたそうですが、写真と動画の違いをどのように考えていますか?

写真の作品というのは僕は一つしかなく、しかもそれは公には未発表です.
写真をやっていた、というほど、自分で何かできると思ったことはないです.
ただ、物理的に時間を記録できるかできないか、というのはとても大きな違いだとは思っています.
たぶん今の僕やみんなが思っている以上に、実際は大きな違いだと思います.

7×7のときよく想像していたのは、僕たちはなにかの展開図のようなものとして、目の前の今を、動画を、扱っているかもしれない、というようなことでした.

3次元の立体が2次元の平面図で書ける、2次元の線が1次元の点で描けるというように、僕たちのいる現実を素材にして描ける、別な、より複雑な次元というのがあるんじゃないか..

今の現実に近い断片を素材にして何か作ることは、2次元しか知らない人が無理矢理描く、3次元立体の展開図みたいな、やる本人もよくわからないまま、結果として僕らの次元にはまだ現れてないものを描いてしまうようなところがあるんじゃないか...

そうだったらおもしろいなと思っています.
こういうのは、時間を含めて記録するものじゃないと生まれないと思います.

池田泰教 Q&A
2008年6月
構成:SOL CHORD 

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