作家Q&A:前田 真二郎

 

2000年に制作されたこの作品では、画面に登場する人が架空の世界の人のような、それでいて実在しているような、不思議な存在感を放っているように感じられるのが印象的でした。撮影時、彼らにはどのように声をかけて振る舞いを決めていったのですか?

映画やTVなど実写映像を見ているときに、その内容に関係なくグッとくる瞬間、つまりは「映像的なるもの」に出くわすことがあります。その自分にとっての「映像的なるもの」をベースにして作品を計画していくなかで、「まなざしのコンポジション」という発想が生まれました。最初に「誰が、どこで、何をしているか」 という3つの要素からシーンを設定していき、それを「どのように撮るか?」ということだけに集中して作品をつくれないだろうかと考えました。出演者の振る舞いについては、現場で即興的に指示だしを行うことが多かったです。その自由度を高めるために、事前準備としてキャスティング作業と、ロケハンに時間を費やしています。

オン制作時と2008年の現在では、撮影する対象としての"人"に対する まなざし に違いはありますか? あるとすればどのような違いですか?

今から思うと、あの頃は人を撮ることが本当に怖かったし、人に限らず撮影することに極度の緊張がともなっていたように感じます。それが良くも悪くもユニークな撮影結果をもたらしていたと思います。けれど、その感じはずっと持続するものでもないだろうとも思って、『オン』が完成した後に意識的に撮影能力を上げようと訓練した時期がありました。もっと映像世界のレンジを拡げようといったことを考えました。撮影されることで変化していく現実世界の様相であったり、撮影者の無意識が画面に映りこむといったことに目を向けていきました。

最近の作品では、前田さん自らが映像に映り込む事が増えている様に感じます。それは、『日々』を撮ったことと関係があるのでしょうか?映像に自分の姿が映り込む事に対して、考える事や感じる事はありますか?

撮影行為を作品に結びつけるということは、撮影者としての自分がその作品とどう関係するかというところを当然考えることになります。全く映像作品に自分の姿が出てこないあり方もあるだろうし、出てくるあり方もありますよね。撮影者が出てきちゃうっていうのは作品世界の構造という点から考えると、レイヤーが一次元増えるのは事実なので、手持ちの駒がひとつ増えるという感じでしょうか。レイヤーが増えたらいいってもんでもないですけど。

ドキュメンタリーではなく、かといって劇映画でもない映像を作成するにあたって、予期しない もの や こと が映り込む事に対して、どのような態度で臨まれていますか?それは『オン』制作時と現在とで、違いはありますか?

『オン』制作時にも、偶然の出来事を作品世界に積極的に取り込んでいく姿勢はありましたが、最近では、さらにその部分について意識的な作品を制作したいと考えています。現代においてますますカメラは現実やイメージを再現する道具ではなく、未知を発見する道具であるべきだと思っています。また、誤解を恐れずに言うと、カメラは撮影者のシャーマニックな潜在能力を刺激する道具でもあるようです。

映像メディア技術の目まぐるしい進歩(例えばハイビジョン・クオリティでの制作環境)に対して、現在感じている事を聞かせてください。

HDフォーマットがもたらす一番のインパクトは、ネットワーク経由でのPCによる映像鑑賞がスタンダードになることでしょう。一般的には、DVDや Blu-Rayといったディスクメディアによって視聴される映像のあり方は減少していくでしょう。ディスクメディアは、ローカルでやりとりされる記録メディアという側面よりも、「データが刻まれた円盤」として、象徴性が強まるのではと想像しています。
 

2008年10月の第三期リリースで『日々 "hibi" 13 full moons』をリリース!

前田真二郎 Q&A
2008年8月
構成:SOL CHORD 

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